1600
生前贈与や株取引が運良く上手く行ったお陰で、資産額が1600万に突入した。
ここで問題が生じる。
私の年間生活費は、家賃を3万円と仮定すると、100万円の範囲内に収まる。
単純計算で1600万円を複利運用せず毎年40万円ずつ取り崩せば40年持ちこたえる。
(↑ちなみに40年持ちこたえられれば、生涯独身であり続ける男性の寿命と言われる年齢に達するので、40年で十分という皮算用をしている。なお、この寿命に関するソースは不明である。)
流石の私でも、残りの年間60万円分程度の賃労働程度は出来るであろう(と思いたい)。
家賃があって無いような事故物件や、家賃が極端に安い特定の地域に居を構えれば、年間70万円程度で生活が出来る。
つまり、「手段を選ばなければ労働からの準完全撤退が可能」という何とも中途半端な状態な訳である。
問題とはこの中途半端さであって、まだ資産が無い時は収入をモチベーションに仕事やそれに付随する勉強が出来たものだが、いざ労働からの撤退が現実味を帯びてくると、緊張感が解けてしまい、どんなに楽な仕事であっても苦痛に感じるようになってしまったのだ。(だってどうせいつか辞める仕事だし、頑張っても意味なくね?的な)
実際今の仕事はカスみたいな物で、正社員でありながらほぼアルバイトみたいな雑用しかしていないし、日によってはやる事が無く、無限にネットサーフィンをしている始末である。(雑用は割と好きだし、というか無能なので雑用しか出来ない)
何ならこのブログも就業時間内に書いている。
以前であれば、楽して金が貰える!と気分が上がったが、今では暇だったり楽な仕事をダラダラしているくらいならいっそ帰宅して寝ていたいとしか思わない。
あと1年、手取り18万円程度の仕事で貴重な、二度と取り戻せない人生の時間を換金すれば、2000万円弱に達する。
だがこれについても、今の会社、今の仕事に拘る必要は無く、1年ぶっ通しで働かずとも、12か月分のフルタイム労働を分割してインターバルを取りながら消化していっても良いわけであって・・・
まあとりあえず夏のボーナスまでダラダラ働いておくか・・・的な結論に着地しそうな今日この頃であります。
人任せ総本山他力本願寺
「自分」とは何か
自我の成立についてはまた別の機会にするとして、「自分」とは、たまたま生まれてしまった存在である。
精子の生存競争の時点でたまたま優秀(若しくは他が劣等)であっただけなのだ。
だから、自分が自分でなければならない理由はなく、他の誰でも良い。それがたまたま自分であったという事だ。
そして、ありがたい事にこの世の中には自分以外に頑張ってくれる人が大勢いる。
今更、自分が何かをする必要は無い。なぜなら、何かをする「自分」は他の誰でも良いから。
と言うわけで、「私」は今日も飯を食い、糞をし、慎ましやかな娯楽に興じて、床につくとする。
疑義
私有財産制から全てが始まった。
被支配-支配の構造から不平等が生まれた。
不平等は欲望を加速させた。
欲は人間の活動源である。どんな栄養素よりも、欲が無くては何も始まらない。
欲によって生産活動が営まれ、欲は満たされた。そして、新たな欲が生まれた。その繰り返しが文明を発展させた。
欲があるから文明が発達し、文明が発達するから欲が生まれる。
欲の分だけ、不平等も生まれる。
現在の文明下に於ける人間の生産活動の本質は、不平等の再生産なのだ。
皆が何等かの点で不平等であり、そこから生まれる欲に苦しむ。欲で苦しめ合っている。
この状態に疑いを持つのであれば、「最初から全てが間違いであった」と結論付けざるを得ない。
これを間違いとするか、正しいとするべきか。
1000万
中学生の頃から、労働への拒絶を原動力に蓄財をしてきた。
出来る事なら、大学を卒業するまでに最低限の生活費を不労所得でカバー出来る程度の基盤を整えたかったが、力及ばず、泣く泣く労働に従事して2年余り。
一先ず、資産額が目標の1000万円に到達した。
正確には、令和4年5月時点で約960万円であるが、失業給付を受給すると仮定すれば1000万円程度には到達するので、とりあえず資産額1000万円達成という事にした。
1000万という数字に特別な拘りがあったわけではない。単に10進法でキリの良い数字というだけに過ぎない。
何かに対して勝手な願望を抱いたり、期待したりするのは自分の悪い癖だ。1000万円に対しても、無自覚のうちにそうしていたのだろう。
資産額が1000万円に到達したところで、その瞬間に何かが起こるわけではない。何かが変わるわけではない。単に、資産額が1000万円になっただけである。自分や成果の本質に、今日も何ら変化は無い。
私が行った節約や積み立てを軸とする蓄財方法は、何かをするよりも「何もしない」方が安全かつ合理的だ。実際私も、労働に従事している以外の時間は取り立てて何かをしていた訳ではない。むしろ何もやる事が無さ過ぎて、一日中窓の外の景色を眺めて終わった休日がしばしばあった。
1000万円に到達する過程が、もう少しドラマティックだったら、抱いた感想は違ったのだろうか。
資産額が1000万円に到達したら会社を辞めてやろうと意気込んでいたが、どうにも決心がつかない。
なまじ、所謂セミリタイアという選択肢を取れなくもない額なだけに、耳垢程度にはあった労働へのモチベーションが保てず、一方で退職の決心がつくような額でもないので、精神的な安寧が保たれないでいる。1000万円とは何とも中途半端な額だ。
1000万円は、私にとっては鉾にはならない。しかし、盾としては十分な機能を果たす。
労働では嫌な事続きだが、「1000万円がある」という一点だけで、何とか踏み止まる事が出来ている。いざとなったらいつでも退職出来るから、あと1日頑張ろう。その繰り返しだ。サウナから出るか出ないかという瞬間の感覚に似ているかも知れない。
「何もしない」で達成した目標だからか、何だかあっけなかったが、もうしばし蓄財の為の戦いは続くだろう。
1000万円を貯めても、幸福度は大して変わらなかった。2000万貯まっても、5000万貯まっても、精神状態は今と同じような感じだろう。
だが、ここで歩みを止めて社会から遠ざかってしまうと、二度と戻れない気がしてならない。1000万円のお陰で、まだもう少し頑張ることが出来そうだ。
あと3年で、何とか当初の目標額である資産2000万円に到達出来ればと思う。
なぜ2000万円か。
10進法で、キリが良いからである。
敵の正体
誰も悪くない
ただ、強いて言うのであれば
敵は
社会であり、制度であり、歴史であり、世界だ
原動力としての酔い
死にたくはないが、(積極的に)生きるのも面倒。
今の状態は、単に「死んではいない」と言える。
生物はやがて死に、記憶は無くなる。全ては無に帰す。
愛や友情は幻想であり、あるのは動物としての本能と、未熟な理性だけ。
気の持ちよう、考え方次第かも知れないが、私から見た世界は、とても薄っぺらで、残酷で、退屈に見える。
そんな世界で生きていくには、強い意志が必要だ。
それは、何かに対する執着である。執着するには、冷静でいてはならない。冷静でいては、気づいてしまうから。
執着の根底にあるのは陶酔だ。
私は、酔えない。
狂ったもの勝ち
芸能人でなくても、個人が様々なコンテンツを発信できる時代。でも、その本質は何も変わらない。
消費者が求めるのは、「異常さ」だけである。
それは「面白さ」という言葉に言い換えられる。
その基準は、カードゲームの如くインフレして行く。
今や、ただ面白いだけでは足りない。もはや狂っていないと「ウケ」ない。
表に出る者は、皆競うように狂い、それを消費する者もまた狂って行く。
狂う覚悟は出来ているか?