再生産
子供は親のエゴによって生まれてくる。
それは、親が一瞬の快楽に酔っただけかも知れない、親が「幸せ」になるためかも知れない、「家庭を持ってこそ一人前」という思い込みによる物かも知れない。
いずれにせよ、子供は親のエゴによって生まれ、生きる事を強いられる。「幸せ」になる事を、「一人前」になる事を強いられる。
そして、その子供が親となり、エゴによって子供を作る。
このような再生産が延々と繰り返されている。
こんな残酷な事があるだろうか。
干渉
やたらと他人に干渉しようとする人間が存在する。
人間の存在価値は無いのに。
オンリーワンなんて幻想だ。
人間には常に上位互換が存在する。収入、能力、顔面に於いて、大多数の人間は単なる廉価品でしかない。
何も無い。人間には何も無いのだ。にも関わらず、他人に干渉しようとする人間が存在する。
他人に干渉すると言う事は、その他人の人生の時間を妨害する事である。
人生の時間を妨害するには、それに見合った何かを提供出来るような存在であるべきだ。
何も無い、単なる誰かの下位互換でしかない存在が、他者の人生に干渉する資格などあるだろうか。
不幸の時代
好きなことで生きていく。
素晴らしいと思う。好きなことで生きていけたら、幸せだろう。
だが、好きなことで生きていける人間がいるなら、好きなことで生きていけない人間もいる。
価値観の多様化によって、不幸も多様化してしまった。
御上から幸せの基準、モデルが提供され、それに盲目的に従って生きていくというのは、案外幸せな事なのかも知れない。
神が死んだ日
日本人は無宗教と言われるが、何かを信仰するという意味に於いては、誰でも○○教の信者である。
例えば
「頑張って一生懸命勉強して、良い成績を修め、良い大学へ進学し、大企業に勤め、家庭を持ち、2000万を貯め、孤独死しない」
という宗教とか。
私はまさに数年前まではこの「普通の人生教」を強く信仰していた。自分の意思ではなく、幼少期から家庭内や社会で植え付けられた。
しかし、大学へ進学し勉学に励む内に、どうやら別の生き方もあるという事、この世界の仕組みは狂っているかも知れないという事に気付き始めた。
そして、不本意ながら一般企業に就職し、雇われの身がどのように扱われるかを目の当たりにし、大して頑張らなくても一定の給与が振り込まれる事に味をしめてしまった。
それまで疑うことなく信仰していた「普通の人生教」の神である「普通の人生」とは、もはや存在しないに等しい。
神を失って、これからどうするべきか。新たな神を見つけるか、自分自身が神となるか…
人は何の為に生まれてくるのか
人はなぜ生まれてくるのか。
人を産むのは人なので、この問いは「なぜ人は人を産むのか」と言い換える事が出来る。
これを突き詰めていくと、なぜ生物には生存、種の保存の本能が備わっているかという問いに行き着く。
しかし、生物という物はどこぞの誰かが何かしらの意思や目的を持って作り出した物ではない。
つまり人間を含む生物は「たまたまそうなってしまった」だけの存在に過ぎない。
地球が丸いのと同じように、宇宙が広大なのと同じように、何かしらの意味がある訳ではない。
だから、私が、あなたが今この瞬間に存在し、今後もその命が果てるまで存在し続けるのも、「たまたまそうなってしまった」だけなのだ。
自主洗脳の悲哀
弊社は一族経営の独裁企業である。当然、社長は神様同然。社員全員が時には崇め奉り、時には畏怖する。
私の近辺では、常に社長礼讃の会話が絶えない。
「社長はすごい」
「社長に逆らうとマズい」
「社長に目をつけられないようにしなければ」
これを、社員間で延々話している。相互に洗脳し合っているのだ。
このような洗脳の発端は、主に古株で会社にしがみつかざるを得ない事情を抱える者や、学校教育の過程で権力者に服従することを刷り込まれた「真面目」な者である。
権力者を権力者たらしめるのは、服従する者自身である。それを自覚しているのかいないのかは定かではないが、服従者が服従者を再生産するという悲劇(喜劇?)が存在するのである。
本当かどうかは分からない
情報について、それが事実である保証はどこにも無い。
テレビやインターネット、噂、本でさえも、それは事実の一部を切り取っただけかも知れない。都合の良い結論を導く為に人為的に用意された物かも知れない。或いは、そもそも事実無根かも知れない。
では何を信じるべきか。
自分以外、何も信じてはいけない。というより、自分以外信じることは不可能だ。
だからこそ、信じられる自分を構築する必要がある。
教養や知識を身に付け、思考のトレーニングをし、物事の本質、矛盾を見極められるようにしておく。
頭が良くなれば良いのではない。お勉強をすれば良いのではない。
自分が納得出来る結論を自分で導けるようにするのが大切なのだ。
教養や知識は、その結論を導くためのパーツに過ぎないので、自分にとって最低限の物を備えていれば十分である。