我壊
人間は、自らの思想信条に基づいて行動する。その思想信条は、往々にして、時代や生育環境、社会情勢等の影響(洗脳)を否応なしに受ける。
とすると、人間と話している時、自分は果たして「人間」と話していると言えるのか。そもそも「人間」は存在するのか。
肉塊としての、生物としての人間は存在するが、精神世界に於ける「人格」の存在について、懐疑的にならざるを得ない。
その「人格」は、目には見えないモノによって、本人の意思とは無関係に作出されたモノの可能性がある。
ロボットに人格は無い。なぜなら、プログラミングされた通りにしか動かないから。
人間も同じように、プログラミングされていないと言えるだろうか。我々が「感情」と呼ぶモノですら、プログラミングの一環であるかも知れない。
生物は、種の保存の本能がプログラミングされており、常に再生産を繰り返す。そういう「ロボット」であるとするなら、我々が認識している「我々」は、果たして存在するのだろうか。
え、関係無くね?
誰かが殺された。誰かが不倫した。
なぜか、自分に全く関係の無い事に、関心を持つことが出来る人がいる。
関係無いのに。何も。
関係無いのに、勝手に悲しみ、勝手に憤り。
あるんだかどうか分からないリソースは慎重に使いたい。とりあえず、今日は何ラーメンを食べようか。
水槽の亀
私の実家の近くの家の玄関先に、40cm四方ほどの水槽がおいてある。
中には亀が一匹。多分、私の記憶違いでなければ10年程前からいた。
その亀が入っている水槽を置いている家の前の道は、通学で長年利用していた。亀を幾度目にしたか分からない。
「なんて狭い世界なんだろう」
そう思いながら、外の世界を自由に歩けることにささやかな喜びを感じていた。
勤め人となってからも所用でしばしばその道を使っている。そしてこう思う。
「なんて狭い世界なんだろう」
そう思いながら、外の世界を自由に歩けることにささやかな喜びを、感じてはいなかった。
世界は広い。地球は広大だ。生まれ育った地元の地域でさえ、全ての道を歩き、全ての景色を目にすることはないだろう(やろうと思えば出来るかも?)
でも、世界は狭い。実家の6畳の自室より狭い。亀が入った水槽より狭い。その狭い世界に、気づいたら囚われていた。
労働に、人生に、生死に、欲望に、金に、人間に囚われる。
ふざけるな。納得がいかない。それはそういうモノだ。そんな理屈が通ってたまるか。必ず、必ずやこの世界から脱してみせる。
社会人気分では困ります!
「学生気分では困るよ」
学生と非学生(所謂社会人)の違いとは。
違いは無い。どちらも愚か者だ。強いて言えば、後者は救いようの無い愚か者と言ったところだ。
社会人とは。労働に家庭に責任を増やし、その多寡に酔っている生物。
その救いようの無い愚か者が大多数を占めるこの世界。
愚かであることを強いられ、それを自覚せず、ましてや、その状態を善と思い込まされている。
救う価値も無く、救うような事は彼らの幸せな幻想の世界を破壊する、迷惑なお節介に過ぎない。
だから、もう諦めた。私が彼らを見捨て、彼らは私を見捨てる。誰も不幸にならない。素晴らしい世界の出来上がり。