犠牲

インターネットが発達に伴ってエンターテインメントの様相も変化してきている。もちろん、負の方向に。

ネット上での誹謗中傷は後を絶たず、その匿名性も相俟って根も葉もない噂で検索ページが埋め尽くされている。

表舞台に出る以上、誹謗中傷を受けることは有名税のようなモノとして甘受すべきであるという意見もある。私はこれに概ね賛成だ。

もちろん、誹謗中傷を正当化するわけではない。表舞台に立つということは、知的レベルが恐ろしく低い人々の目に晒されるが故、誹謗中傷を受けるのは避けられないという意味である。

エンターテインメントの本質は「見せ物」だ。そのメカニズムはいじめのそれと同じである。

誰かが失敗する姿、的外れなことをする姿、苦しむ姿、それらを見て笑う。これがエンターテインメント。

エンターテインメントは残酷だ。残酷でなければエンターテインメントではない。残酷であるには犠牲者が必要なのだ。

バラエティー番組はそんな残酷さを演出するフィクションに過ぎない。よって、「ヤラセ」であることが前提である。なぜ番組台本があるかを考えれば分かるだろう。テレビ番組は「制作」されるモノだ。

そんなフィクションに基づいた誹謗中傷がネット上を飛び交う。今日のエンターテインメントはここまでが守備範囲である。

誹謗中傷も含めてエンターテインメント。むしろ誹謗中傷こそがエンターテインメントだ。

表舞台で脚光を浴びる人間は、エンターテインメントとして消費され、いつか忘れられていく。

「持たざる者」達によって作出される、新しいエンターテインメント。それが今日のエンターテイメント。